明治・大正の海を渡った鎌倉のユリの話(その3)

ユリ貿易の拡大

明治・大正期の横浜港では、ユリ球根はシルク、お茶に続く輸出品となり、最盛期には4000万箱ものユリ球根が海を渡りました。日本から送った球根は栽培するとちょうどイースターの頃に咲きます。

明治初めころに愛好された山ユリは山採り(山で自生の植物を堀り採る)が主でした。栽培が難しく病気に弱い山ユリは、輸出の主役の座をテッポウユリに譲ります。テッポウユリ系は平地に生え、丈夫で、花の大きさは山ユリより小ぶりながら「鈴なり」に咲く様子も愛されました。大正の初めには輸出の主な種類は黒軸鉄砲百合、カノコユリで山ユリは減少していきます。

世界に広まる日本のユリ

バッキンガム宮殿やウエストミンスター寺院を日本のユリの花が飾り、王立キュー植物園にも日本のユリ球根が植えられました。

ウエストミンスター寺院
カーネーション,リリー,リリー,ローズ

19世紀にパリとロンドンで活躍したアメリカ出身の画家ジョン・シンガー・サージャントの「カーネーション,リリー,リリー,ローズ」1886年の作品です。ロンドンの日本風庭園に着想を得たようで、夕暮れ時の光の中をたくさんの山ユリやカノコユリに囲まれて提灯の明かりを見いる少女が描かれています。幻想的で愛らしく心惹かれる光景。このたくさんの山ユリも日本からのものです。

80年近く前に出された、イギリスの女性デザイナー、スージー・クーパーのティーセット、タイガーリリーのシリーズから。彼女が取り上げたタイガーリリー(オニユリ)も日本からイギリスにわたったものです。英国の陶芸家を顧客に持っていたジャーメインから渡った球根でしょうか。これも日本のユリをテーマにしたカップですね。

スージー・クーパーのカップ
オニユリ(タイガーリリー)

日本のユリの球根は、ヨーロッパはもとより、アメリカやオーストラリアにも届きました。日本から実に半年の船旅の末に植えられた球根は、その地で花をつけたのです。

昭和に続くユリ貿易

船旅の途中で病気にかかる球根もありました。しかしそれらは栽培法や梱包方法で年々改善され、病気に強い球根を送り続けることができた貿易会社が残りました。

大正の終わりごろは現在の金額にして100億円ほどの取引があったのだと考えられますが、外国人商社は昭和に入ると次第にユリ貿易から消え、日本の2社、横浜植木と新井清太郎商店が戦後までユリ貿易を継続しました。栽培農家を押さえ指導はもとより、梱包、輸送の技術が優れていたことが理解できます。

石版画のユリカタログ

明治から大正にかけて、日本のユリの美しさを世界に知らしめるのに、日本発行のユリカタログ「Lilies of Japan」が一役買いました。横浜植木社が制作で浮世絵の技術を活かして多色刷りされたユリの石版画集。息をのむほどの色彩の美しさ。 これが欧米の人々のハートをつかんだのです。いまだにコレクター垂涎の書物です。

このカタログから、日本のユリの大きさ、色の美しさとともに、種類の多さを知ることができます。明治32年に欧米向けに発行された初版の「Lilies of Japan」は32種類ものユリを紹介しています。海を渡り、欧米人に日本のユリの多様性と美しさを伝えました。

「Lilies of Japan」は初版の好評を受けて、大正元年には国内向けに再発行されました。さらに紹介するユリの数を増やしており、同じような構図でも色数も増え、グラデーションが鮮やかです。国内の栽培家愛好家に42種類もの多様でカラフルなユリを紹介しています。現在では絶滅した種もあるそうです。

ユリ球根の値段

アイザック・バンティング社のカタログによると、1910年代のイギリスでは、通常サイズのテッポウユリ球根は1株1万円ぐらいで売買されていたようです。

リリウム・ヘンリーの大型の球根が1株約10万円。希少種はお高かったようです。チューリップ・バブルならぬユリ・バブルがあったことがうかがえます。

1920年代ごろの横浜植木の価格表は、エアメール用の紙に石版画で多色刷りしています。とても美しいものですね。

アイザック・バンティング社 1911-12年 カタログ
リリウム・ヘンリーの価格
横浜植木株式会社 ユリ球根の価格表

次で最終回の予定でしたが、長くなったので全5回に変更します。
次回はそろそろ鎌倉のユリに戻りましょう。

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