鎌倉には同じ苗字の人が住む、静かな秘境のような谷戸がある。と、いつの頃か聴いた ことがある。谷戸とは谷間のこと。あまり外の人が入ることのない集落は私の中で、桃源郷のようなイメージとして膨らんでいった。それが、ついこないだ近場にあるとわかり、おそるおそる訪ねてみることにした。
近場、とはいえ外の人があまり尋ねない場所。車を置いて徒歩で向かう。幹線道路を越え、5分も歩くと車の音もほとんどきこえない。ぽつぽつとある人家を越えると、緑の「におい」がして、山に囲まれた農地がある。あたりは鳥や虫の音だけ。建物も見えない、人影もない、穏やかな場所。そっか~、ここが秘境かあ。もう何時間も歩いて、ようやくたどり着いた、ありがた~い土地のような気がする。
手入れされた農地では大根や春菊が育てられていた。こんなに人里はなれて(注、実際には幹線道路からすぐです)静かで 豊かな土地で育てられたら、さぞおいしかろう。冬場に作られる鎌倉の大根は、太くみずみずしくて甘みが多いのだ。葉は青々と茂るけど、根は透き通るような白!。太陽の光を大きな葉で受け、地面の中で養分をたっぷり吸収した大きな大根。
畑から大根を抜くために力を込める。土から大根が出てくるときの音が、なんとも言えず好き。めりめりめり、ずぼ!(文字に書くと凡庸だけど、実際には力がこもった音)「出てきた~、ようこそ」と歓迎したくなる。でもここからがちょっと急ぎ。白い根菜類は、できるだけ早く洗わないと、その白さが損なわれてしまうのだ。
谷戸の入口の方の農家では収穫したばかりの大根やほうれん草を、おじさんが手入れしていた。洗って、葉をそろえ、しばって出荷を待つ。寒い中での作業はたいへんだろうけど、それを感じない。ここでは時間もちょっと豊かに流れているような気がした。 とはいえ、振り向いて歩き出せば、5分もかからないで、車の往来も激しい「現実」の世界に戻ってしまうのだけど。
このおじさんの作っただいこんが、秘境の時間の豊かさまで運んでくれるといいな。どんな料理にも合う大根だけど、今日はこの暖かい土地に敬意を表して風呂吹きにしよう。ゆったりと煮て、暖かいゆず味噌とアツアツでいただく。静かな桃源郷に思いを寄せながら。(Can)