玉縄史跡祭

Img_4121 夏も終わりに近づいた8月19日、鎌倉玉縄地域の夏祭り「玉縄史跡祭」が行われた。現在は鎌倉の住宅地で農振地域も抱える玉縄には、かつては玉縄城という山城があった。北条早雲の手によって作られ、三浦半島の里見氏に対して抑えの役割を果たし難攻不落を誇ったという。1526年、この玉縄城側は戸部川(現在の大船駅前の柏尾川)での里見氏との激戦で勝利し、里見氏を追い返した。戦死した者を顕彰するために、毎年8月19日に戦死者の首塚がある玉縄戸部町で地域の人々が集まって玉縄史跡祭は開かれる。

・・・とここまで書いたら、なんと勇ましい土地であったか、と思うかもしれない。でも、この戦いの戦死者は35人。 Img_8744 あれれ・・・戦国の世とはいえ、ちょっと桁がちがうぞ。鎌倉時代は幕府のあった旧鎌地域と呼ばれるあたりでは戦いごとに「数えきれない死者」が出たり、一族郎党全部滅ぼされたり。いまだに由比ガ浜や材木座ではかつての戦乱で命を落とした者の人骨が大量に発見されるというのに。で、鎌倉市のはずれの玉縄の激戦では35人の戦死者(玉縄を守るために命を落としたりっぱな方々です)。江戸時代直前になると、玉縄城は徳川方の前に戦うことなく無血開城する。その後ほとんどの武士は地主として農業に従事したと聞く(小作は少なかったらしい)。大戦中は地域の中心に捕虜収容所が設けられたため、空襲をまぬがれた。戦後は収容所があったおかげでいち早く米軍の食糧援助を受けもした。いろいろ調べても、縄文時代より前から人が住んでいながら、1526年の戦のほかはいくさの記録がほとんどない。どうやら農地だったこの一帯が戦禍にまみれたことはないようだ。

Img_4120_2 なだらかな丘陵で肥沃な関東ローム層の土を持ち、緑と水に恵まれた温暖な気候の土地。環境的にも、歴史的にも農業に向いた、ほんとうに「のどか」な場所だったんだ。道理でここで作られた野菜は甘くおいしいわけだ。

お祭りでお父さんにお面を買ってもらって早速つけて帰る子ども。おじいちゃんと一緒に綿あめを求める子ども。友だちと待ち合わせてお祭りを楽しむ中学生と、ちょっと離れたところからそれを見守る親。かつては日本中にあふれていたそんな懐かしくも消えゆく光景が、今も残る地域。ちょうちんを見ながらその穏やかな豊かさに感謝した。